ブログ赤坂店

2017.5.4

千利休の茶の湯について語る

千利休と言えば、茶人として有名な商人ですよね。千利休は、現在の日本における「おもてなし」の精神を象徴する人物でもあるとも言えるのです。

本日は、あの有名な千利休についてお話させていただきたいと思います。

千利休とは

お茶
冒頭でも触れたとおり、千利休は戦国時代から安土桃山時代の頃の時代に、茶人として活躍した商人です。
わび茶の完成者としてもよく知られ、数多くの弟子を抱えていたそうです。

また、千利休は豊臣秀吉の側近という一面も持ち、秀吉が織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名への影響力も持っていましたが、やがて秀吉との関係が悪化したことにより、最後は切腹へと追い込まれてしまったそうです。ただし、切腹を命ぜられるまでに至った真相については、さまざまな説があると言われています。

利休の茶の湯

茶道
「わび茶」の完成者としての利休は、後世の資料によって大きく演出されてきたもので、偽書である『南方録』では、新古今集の藤原家隆の歌である「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としています。表面的な華やかさを否定する質実な美として描かれているのです。
しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎているため、利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきたのだそうです。

利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、禁欲主義ともいわれます。その代わりとして創作されたのが、楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具でした。装飾性の否定を特徴としていて、名物を含めた唐物などに較べ、これらのような利休道具は、決して高価なものではありませんでした。
利休は茶室の普請においても変革を行ったとされています。それは、草庵茶室の創出です。それまでは4畳半を最小としていた茶室ですが、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、さらに躙り口や下地窓なども工夫したのだそうです。

そんな中でも特に注目すべきところは、「窓」の採用です。師の紹鷗までは、茶室の採光は縁側に設けられた2枚引き、もしくは、4枚引きの障子による「一方光線」でしたが、利休は茶室を一旦土壁で囲って、必要に応じてそこに窓を開けるという手法を取ったのです。
このことによって、茶室の内の光を自由に操ることができるようになったのだそうです。さらにその後には、天窓や風呂先窓なども工夫され、より一層自在な採光が可能となったのです。

利休の茶室に見ることができる合理性と自由さは、現代に至るまでの日本の建築に大きな影響を与えてきました。
また、単なる通路に過ぎなかった空間を、利休は「積極的な茶の空間」あるいは「もてなしの空間」としたのです。このことによって、茶の湯は客として訪れて、共に茶を喫して退出するまでの全てを充実した時間とする「総合芸術」となったのです。

 

このように、千利休が残してきた功績は茶道のみならず、他の様々な分野でも伝えられてきました。
知れば知るほど素晴らしい人物だったのだと実感できますね。

 

当店では、すき焼きやしゃぶしゃぶをはじめ、様々な旬の食材を使った料理をご用意しております。是非皆さま一度ご来店いただけましたら幸いでございます。
皆様のご来店お待ちしております。

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